「学校のあゆみ」の学習から「TV会議での学校間交流」へ 〜社会科から総合的な学習へ〜
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M北小学校(本校)は、市内11番目の学校として、昭和58年にI北小学校が分離して誕生しました。そこで、どうしてI北小学校が分離したのかを、社会科での学習のU市の人口の増加のテーマと関わって子どもたちは調べることになりました。
I北小学校について調べるチームは、実際にI北小学校に出向いて、当時の様子などをくわしく取材してきました。 そこでわかったことは、I北小学校は昭和55年に開校。その時の児童数は、571人で15クラスでした。しかし翌年の昭和56年になると、児童数953人、クラス数も24クラスに増え、さらに57年には児童数は1356人、33クラスまでふくれあがってしまったのです。
そしてI北小学校では校舎が足りなくなり、プレハブ校舎が2つもできました。当時のプレハブ校舎は夏はとても暑くて、冬はとても寒かったそうです。
プレハブ校舎が建ってせまくなった校庭で1000人以上の児童が運動会をするといった状態になってしまったそうです。
そしてついにI北小学校は二つの学校に分離することになりました。
実はその年、しおちゃんマンはそのI北小学校の一年生の先生でした。 パワーポイントで写している写真は、分離三日前の一年生がお別れ会をしている様子を映しているところです。まだ25歳のしおちゃんマンも写っていました。
同じクラスの仲間が翌月から別の学校の児童になってしまうという、今では想像がつかない事実があったことに子どもたちは驚いていました。
そしてついに昭和58年。M北小学校が誕生しました。
航空写真で見ると、I北小学校とM北小学校はすぐ近くにあることがわかります。取材チームのメンバーから、I北小学校の子どもたちと仲良くしてみたいという声があがりました。
そこでこの発言を、総合的な学習へのスタートとしようと考えました。