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学校づくり〜困難をのりこえて〜

全生研第47回全国大会一般分科会<第20分科会 学校づくり 小学校 基調提案>

一、三つの困難

学校づくりが年々困難になってきている原因を、以下の三つの視点で考えてみた。

一つ目は、保護者が学校をサービスを提供するものとしてとらえ、それが細かい要求として学校に向けられ、教師にとってはそれが理不尽な要求に聞こえることが多く、保護者との「協同・連帯」が難しくなってきているということである。

さらには、保護者同士も警戒と不信の関係にあり、信頼をベースにした対話が成立することが困難となり、その不安が学校への批判という形で表れることが増えてきていることもあげられる。

二つ目は、そういった保護者の「ニーズやクレーム」に即座に対応するために、学校は説明責任・結果責任の準備に追われて多忙化し、教師間の「協同・連帯」もまた困難になってきているということである。

また、そればかりか、管理職や主任のリーダーシップを強化しつつ、「保護者のニーズに応える」ことを名目に細かな点検と評価によって教員を締め付け、そのシステムに適応できない教員は、指導力不足・不適格教員という烙印を押されてしまうか、またはそのことへの恐怖によって、子ども不在の視点で無批判に学校運営の効率化に適応しようとする教員を生み出してしまっているということである。

三つ目は、子どもたちへの指導が年々難しくなっているにもかかわらず、先に述べた多忙化により、教師が子ども一人ひとりと向き合う時間が保障されず、そのことがさらに保護者の不満につながるといった悪循環におちいっているということである。

こういった状況の中で、「学力低下問題」や「安全管理問題」は、ますます学校への不信感をあおり、時には教師一人ひとりの資質の問題にまでつなげられてしまっている。

このような、教師個人に責任を負わせる傾向は、訴えられた時のために教師個人が損害保険に加入するといった状況を広げることにもつながっている。

さらに、こういった学校への不安と不信感は、習い事や塾など、学校以外の場で子どもを「教育」させることにつながり、そういったことが経済的に許される家庭とそれができない家庭との間に「学力」の格差や、「情報格差」を生み出し、ますます保護者間の協同を難しくしているのである。

注:「学力低下問題」はその根拠にとぼしく、ある意味、経済効果をね らったものではないかという疑いを持っている。教師個人が損保に 加入することについても同様の疑いを持っている。

私たちは、こういった悪循環をどこかで断ち切り、保護者が消費者主義をこえて学校づくりに参加し、教師・子ども・保護者、そして地域でつくる学校づくりを進めていきたいと考えている。

二、保護者との協同と連帯をさぐる

保護者からの、一見「理不尽」に思える要求を、教師はどのようにとらえていけばよいのだろうか。

保護者が学校に対して異議申し立てをすることはけっして間違いではない。ただそれが、学校の事情を理解しようとしない一方的な要求のように私たちにはうつり、その要求を実現するための知恵と力を貸そうとしないように聞こえるがゆえに教師はその要求を「理不尽」と感じるのではないだろうか。

そこでまず大切なことは、一見「理不尽」に聞こえる学校や教師に向けられる批判の中にこそ、保護者の願いや要求があるというとらえかたを持つことが大切ではないだろうか。

そして、足りなかったところは素直に詫びつつ、一方で現場がおかれている事情・現状を理解してもらい、一緒になって子どもたちを育てていくことを呼びかけていく必要があるのではないだろうか。

すると、そうした対話の過程で、今まで気がつかなかった学校の課題が見えてくることがあり、その時にこそ、その課題解決のための「参加」を保護者に呼びかけ、一緒になって学校づくりを進めていけばよいのではないだろうか。

たとえば、子どもたちの登下校時や放課後の安全確保のために学校として取り組んでほしいという要求が出たとする。しかし今は、その要求は「学校として何もしていない」「子どもたちの安全確保を軽視している」といった学校批判の形で出ることが多い。

一方学校は多忙化の中にあるので、そういった「声」に対して、理不尽な要求としてとらえ、これもまた批判的につきはなしてしまうケースが多いのではないだろうか。

しかしここでは先に述べたように、まずそういった「声」を真摯に受け止め、多忙化の中でなかなか手が回らない現状を理解してもらいつつ、同時に、子どもたちの安全確保のために協力してもらうことを呼びかける必要があるのである。

こうした対話の中で、PTA のパトロールを強化するとか、父親の会をつくって、パトロールをしようとかの新しい提案が生まれたりする例もたくさん存在するのである。

さらには、授業をきっかけに協力を呼びかけることも考えられる。

保護者の中には、専門的な知識や技術を持つ人がいるので、そうした人たちに積極的に授業参加を呼びかけ、協力してもらうのである。

しかしここで大切なことは、こういった取り組みが教師の「仕事放棄」につながってはいけないということでうある。

大切なことは、お互いの役割を果たしつつ足りない面をカバーし、協同して「学び」をつくりあげていくことである。
 
三、教師集団の協同と連帯をさぐる

地域によってそのスピードに差があるものの、全国的に新採用の教員が増えてきている。また、臨時採用、講師といった肩書きでの若い人たちが職場に登場してきた所も多いのではないだろうか。

いずれにしても、県の職員以外に様々な職種の職員が増えてきたことと、若い人たちが少しずつ増えてきていることが最近の職場の傾向であることは間違いない。

そうした中、立場や年齢の差を利用して、上から教え込む形で関わりを持とうとする教師が多いことにあらためて驚いている。中には、民主的な立場にたっているはずの仲間でさえも、そうした家父長的な関わりを持とうとしているのを目の当たりにして、あらためてこの間(若い人たちが採用されなかった長い期間)、私たちの価値観が蝕まれてしまっていることに気がつくのである。

私たちは、指導とは教師が「集団」で担うものであることをもう一度思い出し、年齢や立場を超えて、仲間として支えあい、学びあう中でこそ子どもたちへの指導が成立することを再度確認したい。

そのためには、サービス提供と経営の効率化に適応するために援助するという形ではなく、孤立と焦燥の中で生きている子どもたちや保護者について大いに対話し、そういった実態に応えられる学校のあり方を語り合うことから始めるべきであろう。

そしてそれらの対話は、職員室を超えて、私的・個人的なつながりの場でも大いに語り合われるべきである。

四、子どもたちの学校参加のあり方をさぐる

残念ながら、全国的に児童会活動は形骸化し、総合的な学習も、英語や情報等々、「学び」の内容が事前に決められ、そのレールにのった形で子どもが動くというものになっているところが多い。

私たちは、子どもたちが自治の力を獲得しながら、児童会や授業を通して、学校づくりに参加していく実践を進めていきたいと考えている。

そのためにはまず、学校・学級のあり方について発言できる場を保障することである。

そういった場は、現状では「授業」であることが多い。つまり、授業そのものを、学校づくりにひらかれたものにしていく必要がある。

また、それでもかろうじて残っている学校行事や児童会活動を、子どもたちがそのあり方について発言し、主体的・自治的に参加していくものに再生していく必要がある。

児童全員が組織された児童会を再生するために、任意のグループ活動を対置させていく試みが広がってきてはいるものの、まだ問題提起の段階で止まってしまっている様に思う。そういった実践が子どもたちの学校自治にどのように結びついていくのかをあらためて整理していく必要があるのではないだろうか。

<参考文献>
第四六回全生研全国大会「学校づくり小学校」分科会基調提案(文責 山本敏郎氏)

(2005.5.25)