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支え・励ましの他者を

「先生、このことお母さんに言わないでね」「どうして?言いつける気はないけど、別に言ってもかまわないと思うんだけどなあ」。

小さなことである。友だちから借りた筆箱を投げて返したので、ちょっと注意しただけである。もちろんその子が心配しているように、家に連絡などするわけがない。ところがその子は心配している。

今、このような子が増えてはいないだろうか。つまり、家庭の中で自分の失敗や弱さをさらけ出せない子どもたちである。

そんな子どもたちにとっての親は、何か失敗したときに自分に罰を与えるものとして存在しているようだ。そして、大人たちの都合でつくったレールの上に自分たちをのせて、失敗することなくなるべくスマートに、かつコースをはずれることなく走り続けることを強要する存在、そしてがんばればなんとかなると言い続ける存在としてあるのかもしれない。

しかし、子どもたちは知っている。がんばっても、どうしようもないことがあることを。そしてそのようなことの方が多いことを。さらには、そんなにがんばって手に入れようとしているものは、必ずしもそれだけの価値があるとは言えないことにも気づき始めているのである。

仲間はどうだろうか。

中学受験を一週間後にひかえたある日、一人の子が欠席した。すると「アイツは受験勉強でズル休みをしたんだ」とまわりが言い出したので驚いてしまったことがある。体調を崩してしまった友だちを気づかうのでなく、受験のためにズル休みをしたんだと主張する仲間達。そんな仲間関係の中で生きている子どもたち。彼らにとって友達とは「仲良し」という仮面をかぶった、一番身近な敵なのかもしれない。

今、子どもたちは自分の失敗や弱さをどこでさらけだしているのだろうか。そして失敗や弱さをさらけ出しつつ、自分を支え、励ましてくれる者に甘えながら失敗を乗り越え、弱さを克服していくといった世界をどこに持っているのだろうか。

「そんなこと気にしなくていいんだよ」
 「考えようによっては、必ずしも失敗とは言えないぞ」
 「その失敗を次に生かせよ」
 「そこが、おまえのいいところだよな」

 失敗や弱さをそんなふうに支え、励ましてくれるような家族や仲間が、今の子
 どもたちにどれだけ存在するのだろうか。そして、そんな家族や仲間が彼らの
 中に根付いているのだろうか。

 そんな彼らが、どうしようもない壁や失敗にぶつかってしまった時、いったい
 どうなるのだろう。

 いとも簡単に命を捨ててしまう子どもたち。もしかしたらそれは、これらのこ
 とと無関係ではないのかもしれない。

 今、私たちは子どもたちの中に「支え・励まし」の他者を根付かせたいと、
 願っている。 そして子どもたちが、自分の弱さから逃げることなく正面に見
 据えて、社会にはたらきかけ、社会にはたらきかけつつ自分の弱さを克服して
 自分の生き甲斐や幸せを掴んでいくような生き方をしてほしいと願っている。

 そこには、自分を愛し、支えてくれる親や仲間がいる。
 そして、かれらがそんな親や仲間がいることを自覚できた時、簡単に「命」は
 捨てられないはずである。

 自分の中に「支え・励まし」の他者を根付かせるということは、自分もまた仲
 間の中に「支え・励まし」の他者として存在することでもあるのでる。

□ 雑誌「生活指導」1996年 8月号掲載 □

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