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教師の口をふさごうとするモノとの闘いが始まる
〜自己決定権と意見表明権を行使する年に〜
明けましておめでとうございます。
今年は、 "教師の口をふさごうとするモノとの闘いが始まる年" だと考えています。その闘いためのキーワードは、『自己決定権』と『意見表明権』。2014年を振り返りつつ、今年についてさっそく "意見表明" してみたいと思います。
# 以下の文章は、全国生活指導研究協議会第56回全国大会「学校づくり」分科会基調提案(文責:塩崎義明)を、大幅に加筆修正したものです。
# 今年も一段落を意図的に,140文字以内(前後)にしてみました。長文だとこの方が読みやすいと考えました。
# 長文になってしまいました。何かひとつでも、気になるフレーズをみつけていただけると幸いです。
# 全体の構成がわかるように{目次}をつくってみました。
今年もよろしくお願いいたします。
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{目次}
一.【競争と差別】の原理で "口がふさがれる"
二.思想・精神・信条、行動を統制する第二次管理主義教育
●教育方法を統一し子どもを統制・操作する動き
●事務主義的管理主義教育
三.共に生きる権利を求める声にならない声はすでに発信されている
●「学級崩壊問題」を考える
●不登校の増加と現場の "指導になっていない指導" の現状
●子どもの自傷行為の広がり
四.応答関係をつくりなおすことから
五.自己決定権と意見表明権を行使する
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一.【競争と差別】の原理で "口がふさがれる"
『子どもに「寛容」であることは「いけないこと」である』といった価値観が広がる今日の学校現場。「忙しくて、仕事をする時間がない」とまで言わせる異常で理不尽な忙しさ……。
その「忙しさ」の中身とは、まわりに足並みを揃えるための忙しさ、そしてまわりに合わせているように見せるための忙しさばかり……、つまり説明責任(言い訳)のための忙しさ……。
一方で、ひたすら成果をあげることを求め始めた日本の学校現場。教育は数値では計れないことをいつのまにか忘れてしまった日本の学校現場……。
こういった背景の一つには、国・文科省の政策・方針に無批判に従わせる為の【競争と差別】による教員支配体制があります。「国のために身を捧げる子どもたちづくり」のためには、「国の指示命令に従順な教師」が必要だからです。
まずは、【競争の原理】による教員支配。誰が子どもたちに言うことを効かせることができるのかの競争、誰の教室がきれいに「飾られているか」の競争、職員室の誰の机の上がきれいで、誰が事務仕事を早く終わらせることができるのかの競争。
それらは順位を決める競争ではありません。そして誰もその競争に参加して勝利しようとは考えていないはず。にもかかわらず私たちはいつのまにかそういった競争的な目で仲間を見、仕事を価値付け、さらにはその競争に負けて自分が低く評価されることにどこかで怯えている……。
実はそれが支配しようとする側のねらいです。そして問題は、その競争に勝つためには、時には子どもたちが「邪魔」になり、子どもたちと接する時間は二の次にしなければならなくなることです。
教員支配のもう一つの重要な原理として、【差別の原理】があります。教室環境や指導方法について、足並みを揃えようとしない者、揃えることができない者に対して、時には「人格的に問題あり」とまで評価しながら差別することもその一つです。
差別政策は、表向きは効率化。そして外からの管理体制が問われることに対しての防衛策であり、一方では「上」からの方針に対して従わないものを少数派として屈辱を与えながらその本人や他者を支配する手段であると言えます。
ちなみに、学テを利用した学力向上問題も、【競争の原理】と【差別の原理】を利用した教員管理支配政策という面もあることに気づく必要があります。
【競争の原理】と【差別の原理】による教員管理・支配体制は、教員個々をバラバラにしながら、競争に勝てず、集団からも差別されていくのは自分のせいであるかのように仕向けます。また実際にも、その責任と身の振り方(説明・言い訳も含む)を個々にせまります。その結果、教員の精神的疾患が広がることになります。
二.思想・精神・信条、行動を統制する第二次管理主義教育
●教育方法を統一し子どもを統制・操作する動き
2015年は、「道徳」の教科化の問題に代表されるように、国のために奉仕できる子ども、体制に従順な子どもづくりが、より具体的に強く打ち出されてくる年になりそうです。
こうした、教育基本法の改悪が現場に具体的な形で降ろされ、それが広がってきている時代を「第二次管理主義教育」の時代であるととらえています。
こういった動きは、戦後、保守の側からずっと打ち出されてきたものですが、今回は、学校スタンダード化でいっそう管理・支配された教員のもと、子ども一人ひとりの思想・精神・信条、行動を徹底的に統制・操作しようとするようになるでしょう。
学校のスタンダード化は単なる教育方法のマニュアル化ではなく、上から強制的に降ろされてきた学習スタイル・規律・教育方法を教師に強制するものです。地域によっては、挙手・発言の仕方や、毎時間の板書の書き方まで統一させようとする所もあるようです。
教育方法の統一化の危険性については、私も朝日新聞の取材で話しておきましたが、インクルーシブやユニバーサルデザインの考え方を "利用して" 学習スタイルを統一させていこうとすることについてあらためて批判的な意見を述べておきます。
一つ目は、特定の学習スタイルや規律を強いることで、逆に、そういったことになじまない子の排除につながるということです。
二つ目は、わかりやすさを前面に出してしまうことで、疑問や矛盾を感じ、そこから深まる授業の醍醐味や本質を見失ってしまうことです。
三つ目は、学びに対する多様なニーズに応えることができなくなるということ。
最後に、教師が、合わせることばかりに目を奪われ、思考停止になり、子どもの側に立ったアイデアや工夫のある授業を生み出すやりがいや意欲を失ってしまうことです。
●事務主義的管理主義教育
さて、こういった思想・精神・信条、行動を統制・操作する「管理主義教育」は、きまりごとや禁止事項をより細かく決め、それが守られているかを取り締まり、場合によっては処分をもちらつかせる「取り締まり型」の管理主義教育だけではありません。いわゆる「上手な授業・指導」の背景にも管理主義がしのびよっていることに注意をはらわなければなりません。
それは、教材研究が行き届き、授業の展開手順も無駄なく整えられている……、授業外の子どもたちの行動についても細部にわたって標準行動と手順とが決められている……、子どもたちはその路線にのっかっていれば自動的に「できあがる」教育……。
こういった教育は子どもの「品質管理」もなかなか行き届いており、その工程の各段階でチェックされ、仕分けされていく……。そして「品質」?の悪いものは、「忙しさ」を理由に切り捨てられていく。こうした「事務主義的管理主義教育」にも十分注意をはらう必要があるでしょう。
こうして子どもたちを管理していこうとする一方で、理想とされる人間像を具体的に打ち出し、それに向かってどれだけできているのかを評価し、その評価はその子の進路にまで反映されるようにしていくことが考えられます。
さらには、組織や国のために自らを犠牲的に捧げる生き方が美化された「操作的感動ストーリー」が、もて囃されることもすでに始まっていることにも注意をはらう必要があります。
三.共に生きる権利を求める声にならない声はすでに発信されている
【競争と差別】による教員支配は、一見うまく言っているように見えますが、あらゆるところで矛盾が噴出し、そういった管理・支配に対する異議申し立ては、教師や子どもたち、そして保護者からの声にならない声としてすでにたくさん発信されているのではないでしょうか。
そして、そういった声は、差別され、蔑まれている仲間……、つらい思いをしている仲間からこそ発信されていることに私たちは注意をはらわなければなりません。
●「学級崩壊問題」を考える
たとえば、再び広がってきている「学級崩壊問題」。そこからも子どもたちや担任の苦悩の声が聞こえてくるのではないでしょうか。
私は今の学級崩壊の広がりを「第三次学級崩壊の時代」と言っています。
1980年代に最初の学級崩壊問題がありました。バブルの時代にあって、国民の中に公立学校そのものの価値が下がってしまった時代……。ゆとり教育が叫ばれ、低学年の社会科と理科が廃止され、生活科が始まりました。小学校で「受験熱」という言葉が新聞で取り上げられる。この時代にまず第一次学級崩壊がありました。
第二次は、2000年前後。これは、学校五日制が完全実施されていく過程で学級崩壊が広がっていきました。つまり、現場に異常な多忙化が広がった時代。そんな学級崩壊に対して、現場は子どもたちを管理しようという風潮が強くなっていく中で学級崩壊が広がりました。
そして第三次は、教育基本法が改悪され、教師もまた管理されていく……。家族問題、いじめ問題が深刻さを増し、教師の精神的疾患が広がってきた時代。
最近の学級崩壊には、次のような特徴があります。
(1) 担任が「子どもたちをきちんと管理しなければならない」「足並みをそろえなければならない」と自分を追いつめながら子どもを管理支配しようとして信頼関係が崩壊してしまう。
(2) 複数担任制や、補助教員と一緒に指導していて、二人の考え方がぶつかり、子どもの指導が入らなくなる。うち一人が管理職に、担任がうまくいっていないことを報告し、担任がますます追いつめられていくケース。
(3) 子どもたち同士の関係、保護者同士の関係がまず崩壊し、それを、管理的に押さえようとする教師のやり方について不信感が広がる、といったケース。
ちなみに、「学級崩壊を立て直した」などと宣伝している「カリスマ・名人教師」が多いのですが、私からしてみたら、その学級が危ない時あなたは何してたの?と問いたいのです。つまり、学級崩壊は同僚性の問題でもあるのです。
子どもたちや保護者の苦悩、教師の苦悩、声にならない声に耳を澄ませて、共同・ヘルプを広げていくことこそ大切なのではないでしょうか。立て直しただのなんだのと自慢している場合ではないのです。
危機管理意識の高まり、経済再生優先の気運の中で、自己責任論が定着し、子ども間の学力・生活格差や、弱い者への差別感が強く出てきてしまっている中、子どもたちや保護者は、たとえばトラブルを力でねじ伏せられることに異議申し立てをし、仲間と共に生きる権利について学校に問うているのではないでしょうか。
子どもたちの「荒れ」や「トラブル」は、共に生きる権利を問うメッセージであるととらえた時、我々は子どもたちや保護者とあらためて出会い直しができると考えています。学級崩壊を乗り越える鍵が一つここにあります。
●不登校の増加と現場の "指導になっていない指導" の現状
子どもたちの学校への "声にならない声" は不登校の増加としても表出されています。
文部科学省が8月7日に発表した学校基本調査で、2013年度に年間30日以上欠席した不登校の小中学生は計11万9617人で、前年度より約7000人増加したことがわかりました。同調査で不登校の小中学生がが増加したのは6年ぶりです。
不登校の小学生は2万4175人で前年度よりも2932人増加。全児童に占める不登校の割合も、0.36%で、同0.05ポイント増え過去最高水準となりました。
不登校の中学生は9万5181人で前年度比3932人増加。全体に占める割合は2.69%で同0.12ポイント増え、37人に1人が不登校という計算になります。小中学生を合わせると不登校の割合は1.17%(中等教育学校を含む)。
これは、ここ数年の学校の、希薄な人権感覚と教員管理の状況、さらには “子どもを騙す”教育方法(いかにも子ども自身が発想しているように錯覚させる方法や、意外性や楽しさのネタばかりを追う教育方法)の広がり状況と、不登校の増加が比例していることに注目したいと思っています。
それに対して学校は、あいかわらず、不登校は学校の恥ととらえ、逆に連れてくることが教育の成果だととらえ、あいかわらず子どもや家庭の生活圏にずかずかと入り込み、人権を無視し、強引につれてくることばかりを考えています。
ひどい学校では、担任や学年を無視して、管理職が一部の職員を「使って」、毎朝強引に連れてくるといったことをしている学校もあるようです。
私たちは、子どもたちに、学校が拒否されていることに気付く必要があります。そして、不登校と名づけられている子どもたちは、実は、 “学校を拒否できる子” と、とらえる必要があります。そのスタンスに立てば、拒否されている学校の問題、集団の問題に目を向けられるし、その重要性に気付くのではないでしょうか。
●子どもの自傷行為の広がり
一方、若者たち(思春期以上)の間で、リストカットに代表される自らを傷つける「自傷行為」的な “追い詰められた癒し” (←塩崎の造語) が広がっています。これは、私たちの想像をはるかに超える広がりです。
ちなみに、リストカットは、「自殺行為」ではありません。死ぬことを目的とせず、むしろ、生きたいという思いからの行為です。それゆえに、リストカットを監視し、強引にやめさせたとたんに自死してしまった事例も多いのです。麻薬・覚せい剤も、ある意味、「自傷行為」だととらえてもよいかもしれません。
リストカットは、どうにもならない感情の救済(緊張、怒り、空虚感、そして疎外感)が、自らを傷つけることによって癒しを求めているといえるのではないでしょうか。
生きている実感を求めている説、心の痛みを体の痛みで回避する説、回復に向けての脳内モルヒネ説、女子同士の秘密共有説…、これらが複雑にからみあいながら、行為に及ぶのではないでしょうか。
リストカットが女性に多いのは、幼い頃の性的虐待が原因になることが多いからだという説があります。また最近では、男女に限らず、親からの暴力的虐待も原因の一つにあげられています。
また、女子の親密グループの中でひそかに広がるのは、秘密の共有を求める傾向が強いからです。また、女子は高学年から、心をひらける親密な関係を求め、その中で今までの自分を崩し、新しい自分をつくっていきます。しかし、思いを語り合う中で、空虚感、疎外感が語られ、自傷行為に向くことも大いに考えられます。
いずれにしても、最近の管理的・競争的・排除不安かき立て的学校体制が、子どもたちの緊張、怒り、空虚感、そして疎外感を増幅させていることは間違いありません。
四.応答関係をつくりなおすことから
学校の排除の恐怖をちらつかせた競争主義に追い詰められているのは、教師や子どもばかりではありません。保護者もまた自分の子育ての前で立ち尽くすし、地域の中でバリアーをはり、家庭外・家庭内において苦悩しています。
また、保護者自身が虐待経験や迫害経験、そして不登校経験を持つケースが増えていることにも留意する必要があります。そう考えていくと、不安を抱えている保護者にも安心と信頼を得てもらうことも子どもを指導する上で大切な課題になってきます。
そのために教師は、同じ苦悩を抱えた者として、保護者から多くのことを聴きとること(学校・教師に対する不満や異議申し立ても含む)を第一歩としたらどうでしょうか。
そして、そのことによって苦悩を語り合える関係を作り出すことが大切です。教師が親子に迎え入れてもらう為に、教師がどのような応答関係を持てばよいのかを見つけだすことです。
教師は子どもと戦い、保護者と戦ってはいけません。闘う相手はそこにはない……。闘う相手は、教師と子どもたち、教師と保護者を、結果的に対立関係にしている国。文科省、教育委員会の取り組みのはずです。
また、苦悩することに悲観的になる必要はありません。わたしたちは、子どもたち、親たちと一緒になって頭を抱え、怒り、泣き、苦しむことで、国や文科省の政策と闘っているのですから。
私たちはそのことについて、逆に誇りを持って胸をはり、闘う相手をしっかりと見据え、明日からの実践を構築していきたいものです。
五.自己決定権と意見表明権を行使する
今私たちの教育活動は、多数派を称する者の決定によって動かされています。それが民主主義であると言われれば確かにそういった面もあります。しかしここでいくつか考えなくてはなりません。
多数だと称している者たちが果たして本当に多数なのか、そしてその「多数」によって決定したという決定の方法は本当に民主的だったのか、そしてその内容が、本当に子どもの幸せにつながるのか。
私たちは、決定された内容や決定しかたをもう一度見直す必要があります。そしてその決定にいたる手順が本当に民主的だったのか、そしてその内容が子どもたちの幸せにつながっているのかを問う必要があります。
そしてそれが子どもたちの幸せにつながっていいないと判断した時には、「みんなで決めた」ことに対しても、自己決定権を行使して、異議申し立てをしなければなりません。
そしてそのことを、さらに意見表明権を行使して意見し、場合によっては決定されたことに反対する行動をとらなければなりません。つまり自己決定権を行使しなければならない時代になったということです。
私たちは子どもたちや保護者、そして同僚の悲鳴のような声を聞いています。リアルな声を聞いているのは私たち現場の教師です。私たちの声こそ、多くの仲間の声であると確信し、意見表明をしていこうではありませんか。
そして子どもの幸せにつながらないと判断したことについては、胸をはって拒否し、自己決定のもと、行動していこうではありませんか。
そのために(自己決定ができる力量をつけていくために)、今年もまた多くの仲間との出会いと学びを体験していきたいと考えています。
共に顔晴り(がんばり)ましょう!!
(2015年1月1日) 塩崎義明