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届けよう『言葉』を!
〜『言葉』との出会いを大切に〜

2014年が明けました。恒例の新年のご挨拶をさせていただきます。

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて、今年の教育現場の課題はなんでしょうか。どんなことを手がかりにして実践を構築していけばよいのでしょうか?今年もいくつか問題提起してみたいと思います。

※"言葉"に、意図的に『』をつけています。単なる"言葉"ではないという意味です。

●心の支配政策に "『言葉』との出会い" を対置する

(1) 教育が子どもたちの「心の支配」にまで及ぶ

「道徳」の教科化の問題に代表されるように、国のために奉仕できる子ども、体制に従順な子どもづくりが、今年あたりから具体的に、より強く打ち出されることになるでしょう。

こういった動きは、戦後、保守の側からずっと打ち出されてきたものですが、今回は国をあげて取り組み、学校での教育を通して、子ども一人ひとりの「心の支配」にまで及ぶであろうことが特徴です。

「心の支配」とは、きまりごとや禁止事項をより細かく決め、それが守られているかを監視し、場合によっては処分をもちらつかせるところに特徴があります。学級定数を少なくして教員の数を増やすことも子ども一人ひとりを監視するテーマにすり替えていく危険性もあります。

また一方で、理想とされる人間像を具体的に打ち出し、それに向かってどれだけできているのかを評価し、その評価はその子の進路にまで反映されるようにしていくでしょう。

こうした中で、「学校の言うことには(とりあえず)合わせる」ことで対応してきた子どもたちは、そういった対応が許されなくなり、心の奥底まで"支配"されることになってしまう危険性があります。

(2) 「裏文化」の喪失

子どもたちは、学校のルールを守りなからも、その裏で、教師批判をしたり、教師にあだ名をつけてバカにしたり、やってはいけないことを見つからないようにやったりします。そして実は、そういう "裏" もあってこそ子どもは育つのです。そういったことを私は、子どもたちの「裏文化」と名付けました。

そもそも子どもの「裏文化」は健全なものでした。教師の批判と言っても、口癖を真似したり、「表」では笑ってはいけない教師の失敗を「裏」だけで笑ったり……。教師を愛すべき一人の大人として「裏文化」の中でも前向きに受け入れてきたわけです。

子どものわらべ歌や、自然に口ずさんでいた歌も同様です。子どもたちの歌の中には、死んだとか殺すとか首を切るとかそういった歌がたくさんあります。子どもたちはそんな裏文化の中でその価値に触れ、いつしかそういったことを批判的に乗りこえていったのです。

ところが、先にも書いたように、今後より一層強まるであろう、超支配的な教育行政・学校体制、そして教師個々の支配的なスタンスによって、触れてはならない子どもの「裏文化」が歪められ、大切な学び・成長の場が失われてしまう心配があります。

政府の「心の支配政策」によって、子どもたちの「表」と「裏」の境界を破ろうとしているのは学校であり教師です。あれもいけないこれもいけないと子どもたち自身の文化に介入しようとしています。

そして今……、大人たちによって破られた境界を超えて、逆に子どもたちからの「仕返し」がすでに始まっています。「裏文化」を表に持ち込み、学校を教師を徹底的に批判し、壊し始めています。

それに対して大人は、子どもたちの「仕返し」を力でねじ伏せたり、優しさで包み込んでごまかそうとしたり、理解したふりをして上から説得しようとしたりしています。しかしそういった取り組みでは、子どもたちから発信されている異議申し立ての『言葉』とは、出会うことができません。

私たちは、子どもたちが発信する『言葉』と出会いながら、裏文化を「保障する」べきだと思っています。「保障する」とは放置することではありません。前向きに認め、肯定するということです。そのためには子どもたちの『言葉』との出会いが必要なのです。

『言葉』との出会いとは、子どもたちの隠された「思い」や「願い」、そして「事情」との出会いです。子どもたちが発信してくる「言葉」からそれを読み取り、応答していくことです。

そして、子どもたちの指導で悩んでいる教師にこそ、子どもの『言葉』が届きその『言葉』と出会える可能性があるのではないかと思っています。

子どもたちの「荒れ」は『言葉』に変換できるはずです。荒れ・反抗・ちゃかし等々を通して、子どもたちが私たちに何を訴えているのか受け止めようではありませんか。子どもたちが発信している『言葉』と出会おうではありませんか。

私も含めた日本の大人たちに、それだけの力量と勇気があるのかどうかが問われています。

(3) 教師間のトラブルが頻繁に発生する危険性

子どもたち一人ひとりを監視し心の支配を進めるためには教員の「強い指導」緻密な実務力、そして「上」への忠誠心が必要です。そしてそれを徹底させるために、管理職によるしめつけ、さらには、それができない職員に対して、みんなで蔑む(さげすむ)空気がますます広がることが予想されます。

こういった職場の問題について、今までは教師個々が自分の問題として受け止め、自分自身を責めることで対応してきました。その結果、教師の精神的疾患が広がっているわけです。しかしこれからは、外に、攻撃的に向かう危険性があると思っています。それが今年あたりからかな……、と。

その結果、傷害事件等、教師間のトラブルが多発する心配があります。子どもたちと教師のトラブルは過去にたくさんありましたが、教師間のトラブルはあまりなかったのです。しかしそれが多発する予感があるということです。

今後特に、職場の中で、差別・蔑まれている仲間からこそ、真の協同・共同を求める『言葉』が発信される可能性があります。ゆえに私たちは、つらい思いをしている仲間について、もっと耳を澄ませるべきです。

そしてもし自分が逆につらい立場に立ったならば、多くの仲間に心をひき、つらい思いを『言葉』にして届けるべきです。それは、公的な場だけでなく、私的な関係にまで視野を広げて、『言葉』を届けることが大切です。大丈夫…、必ず『言葉』は届きます。

(4) 教師の意見表明権が侵され現場はますます閉鎖的に?

特定秘密保護法案の成立によって,SNSの利用禁止等々、私たちの声をふさいでいこうとする取り組みが強くなるでしょう。これは、上からの圧力ではなく、教師個々が自己規制する形で広がるように仕向けられていくことでしょう。私たちは声はふさがれ、現場はますます閉鎖的になっていく可能性があります。

しかしその前に、私たちは、ネット・SNS を利用して、果たして『言葉』をしっかりと届けてきたのだろうか?ということを考えてみる必要を感じていますもしかしたら、あふれる情報の中で、私たちが発信してきた『言葉』は届いていなかったのではないでしょうか?

自分は、SNS を利用して発信すると、それだけで自分の『言葉』が多くの仲間に届いていると錯覚していました。ツイッターのフォロワーや、FBの友達を増やすことが自分の情報の受け手を増やすこととイコールだと考えていました。しかしそうではなかったということです。

受け手としても同様です。いつしか私たちは『言葉』を軽く扱うようになり、その『言葉』に託された「思い」や「願い」について無頓着になってはいないでしょうか?つまり本当の意味で『言葉』と出会えてなかったということです

ネットが利用されていなかった時代、手作業で『言葉』をつむぎ、足を運んで『言葉』を届けていた時代…、もしかしたら今よりも『言葉』は確実に届いていたのではないでしょうか。そして受けても、確実に『言葉』と出会えていたのではないでしょうか。

『言葉』の出会いは、元気と勇気、そして連帯と力を生み出します。そしてその「力」が時代を動かすのではないでしょうか。

手作業の時代に戻れ、ということではなく、私たちはあの時代の教訓をもう一度さがしだして、『言葉』が届き、出会うことができる世界を再構築していく必要があると考えています。

『言葉』をしっかりと届けていきましょう。そして『言葉』との出会いを大切にしていきましょう。そういったことが、私たちの意見表明権を行使することにつながるのだと思っています。

●『言葉』を届けましょう!そして出会いましょう!

昨年は、若い仲間たちと「スマホ時代の授業あそび」(学事出版)を刊行しました。そして、他の研究団体の仲間たちと、「原発を授業する」(旬報社)を刊行することができました。私のスタンスとして、これまで同様チームを組んでの取り組みです。

また、春には「ダメ教師」を自称する若者達と一緒に、「学校珍百景」(学事出版)という、楽しくて、考えようによっては深い意味のある雑談本?も刊行する予定です。

さらに、別な角度から学校現場を眺めた、遊び心のある本も企画中です。

私たちは、いろいろな工夫とアイデアで、子どもたちが主人公の学校をつくりたいと願っています。そしてそういった私たちの『言葉』を確実に、多くの人に届けたいと思っています。

『言葉』を届けましょう。そして多くの素敵な『言葉』、大切な『言葉』と出会うことのできる年にしていこうではありませんか!

2014年1月1日(文責 塩崎義明)

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