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新しい年、2006年が明けました。今年もよろしくお願いいたします。
●「サービス向上」と「説明責任」
さて、昨年の正月のエッセイで、私は以下のように書きました。
さて、このような状況の中、2005年はさらにどんな動きが予想されるのでしょうか。
まず、「学歴選択の資格を取得する」ものとしての「学力保障」の要求が学校に対してますます強くなることが予想されます。
しかし文科省は、一定程度それを保障するポーズを見せながら、一方でその世論を利用しつつ「学校制度の自由化」を推し進め、学校間の競争を激しくさせ、学校の公共性を壊していくことが予想されます。
〜中略〜
一方学校は、「学力向上」を打ち出しながらも、形だけの「習熟度別クラス」や、「時数の確保」という「言い訳」ばかりに追われて(そのために意味のない忙しさばかりで)、真に子どもたちに生きる力を育て、進路を保障する指導がなかなかできないでいます。
また、保護者と学校・教師とのトラブルは、対話による解決の努力を一気に飛び越えて、裁判に訴えるケースが増え、教師は個人で損害保険に入る現実も広がってきています。このことは、こうしたトラブルについては学校はすべて教師個人の問題にしていこうとする動きともリンクしているのではないでしょうか。
〜中略〜
またその過程で、教師の数値による評価と差別化がはかられ、「安上がりに採用でき、上からの支持に無批判に従う教師」を増やしていくことをさらに強めるでしょう。
私の予想通り…、「学力の保障と向上」が大きなテーマとなり、小・中一環校、中高一貫の公立学校が登場し、6・3制の見直しも実際に行われた地区もありました。
さらには、学区の柔軟化・自由化の広がりの中で、今後ますます学校間格差を広がることが予想されます。そんな状況の中で、学校選択ができる家庭とできない家庭との間で二極分化がますます大きくなるのではないかと考えられます。
また最近では、学校教育を「サービス」としてとらえ、その「サービス」の質によって学校を評価する傾向がますます強くなっています。つまり、サービスの内容に不満や問題があったりした時は、その責任について学校を追及する…、といったことが当たり前のようになってきているのです。
その結果学校は、「サービス向上」や「説明責任」の準備のためにさらに多忙化し、教師はそれに振り回されています。
「忙しくて、授業をしたり子どもと話をする時間がない」といった教師の声は、笑い話ではなく現実の問題として私たちに大きくのしかかっています。
一方、子どもの「安全管理」の問題が昨年の暮れから一気に噴き出しました。
しかし、子どもの安全管理の問題地を「学校のサービスの問題」としてとらえている限り、あの悲しい事件はなくなりません。つまり、この問題が「下校時」の問題だけになってしまっていることにどうしてみんな触れないのかということです。
本気で子どもたちを守るのであれば、学校の責任の問題ではなく、学校・家庭を含めた地域全体の問題…、いや、社会全体の問題として考えていかなければなりません。
そしてこれは、安全管理の問題だけでなく、教育・子育てを考える上で、全てにあてはまることなのです。
●教師の意見表明権の剥奪
さて、今年(2006年)はどのような年になるのでしょうか。
まず、「学校の説明責任」という理由で、教師個人の意見表明権が規制されていくことが予想されます。いやこれは「規制」を超えて、権利の剥奪…、弾圧に近い形で進められる恐れもあります。
学級通信のチェックが厳しくなることはもちろん、保護者会の内容についてさらにこまかい報告が要求されるかもしれません。
通知票の評価についても、その評価資料の提出が義務付けられたり、所見欄のチェックも厳しくなるでしょう。
今に子どもに出す年賀状までチェックされるのではないか…、という私の心配は冗談では済まされなくなってくるかもしれません。
また、授業内容についてもチェックが厳しくなり、「学習指導要領」を「錦の御旗」のように掲げながら、そこから外れていると見られる授業は禁止。その結果、工夫とアイデアにあふれる授業ができなくなることも予想されます。
もちろんホームページでの教師としての個人的な主張も規制され、教師のホームページやブログが消えていく年になってしまうかもしれません。
そして実は、これらのことは、大げさなことではなく、地域によってはすでに現実に起こり始めていることなのです。
こうした教師個人の意見表明権の規制や教育の自由の規制は、単なる「学校責任」という問題だけではなく、今年が憲法改正を進めるのに重要な年になると考えられていることとリンクさせて考えなければなりません。
●教師は子どもたちのために意見表面権を行使する年に
しかし、これらの動きは必ず矛盾が噴出します。
生活の二極分化は日本の犯罪を増加させてしまうばかりか、子どもたち同士・保護者同士の関係を崩すことになります。
また、教師を多忙化させ、その実践の自由を奪うことは、子どもたちとの距離を遠ざけることにもつながります。つまり、子どもたちのリアルな生活現実が見えなくなり、その現実に沿った指導が成立しなくなるということです。
そもそも子どもたちは、学校と家庭、そして地域の生活の中で教育されていくものです。それらがバラバラにされ、お互いに責任を押し付けあうような動きは、ますます子どもたちの成長にとってマイナスとなります。
もし私が予想したような年になると、まず子どもたちが、いろいろな形で、学校・教師・教育…そして家庭に対して、異議申し立てをしてくることが考えられます。
それが新たな「荒れ」という形で出てくるのか、それとも別の形で出てくるのか……。
私たちはこんな時代であるからこそ、まずは子どもたちの声に(実際には聞こえない「声」も含めて)耳を傾け、子どもたちとこそ真摯に向き合う必要があります。
そして保護者の皆さんからの声も、批判も含めてしっかりと受けとめ、そこからこそ対話を広げていく必要があります。
そしてそれらをさせようとしない「力」に対しては、意見表明権を守りつつ行使し、時にはそれを広く呼びかけ、子どもたちが全うに成長できる環境を一緒になって創っていく必要があります。
意見表明権といっても、むずかしく考える必要はありません。大いに愚痴を言えばいいのです。「たかが愚痴、されど愚痴」なのです。私たちの取るに足らない愚痴にこそ、もしかしたら大切なことが隠されているものなのです。そしてその「愚痴」がつながった時に大きな「力」となることがあるのです。
はい、私たち教師一人ひとりは、私も含めて小さな石ころのようなものです。しかしそんな石ころでもたくさん集まれば岩となり、大地にもなることができることを権力者達に教えてあげようではありませんか。
そのために私は、今年もブログを書き続けます。教師になってからずっと続けてきた日刊通信も書き続けるでしょう。呼ばれれば昨年のように全国のどこにでも出かけるつもりです。
そのことが今まで以上に大変になることは承知しています。しかし、大変な時代であるからこそ、現場の声を広げ、多くの教師と、そして多くの保護者のみなさんや市民のみなさんと情報を交換しつつ手を結んでいくことが求められていると思うのです。
私たち一人ひとりが子どもたちのために声を出すことで、子どもたちとはもちろん、多くの人たちと手を結べることを確認して、今年も一緒にがんばりましょう。
(2006年1月1日)