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この論文は、1999年8/1〜8/3に三重県鳥羽において開かれた、全国生活指導研究協議会第41回全国大会の、第6分科会<学級集団づくり>「小学校高学年」分科会の基調提案として書いたものを一部手直ししたものです。
1.今、高学年の子どもたちに何が起こっているか 今、高学年の子どもたちの指導のむずかしさはなんだろうか? 一つは、あいかわらずの「能力主義競争」の中に生きる子どもたちの存在である。最近のこういった子どもたちは、一見「ガリ勉として生きる」ことの結論を出しているように見えるのが最近の傾向であり、しかしながらそういった「生き方選択」の中に自己矛盾を抱えながら仲間社会の中に身をかくすといった傾向がある。つまり、一見冷めた目で仲間を見るポーズをとりながらも、そういったスタンスでしか生きられない自分が好きではないようだ。ゆえにそのことについてとやかく言われると、驚くほどの攻撃性を示すことがある。身をかくすのは、そういったことからも自分を守るためでもある。 二つ目は、親の放置と虐待を受けてきた子どもの存在である。こういった子は、低学年の頃から友だちとのトラブルを繰り返し、無軌道な行動で授業を破壊し続けてきた子どもたちである。また、低「学力」でもある彼らは、仲間からも教師からも「問題行動児」としてのレッテルを貼られてきてしまっており、仲間・教師・大人に対して大きな不信感を持っている。かれらは高学年になるにつれて、教室では「いじめ」る側の中心になったり、地域では万引きや喫煙等々の反社会的な行動をとりながら、権力的・暴力的な仲間支配で自分を見るまなざしをはねかえそうとするのである。 そして三つ目は、女子グループの存在である。最近の女子グループは、「そばにいるだけでムカツク」といった「絶対拒否対象」を持つことでつながるケースが多い。したがって、それを擁護しようとする教師とことごとく対立したり、その対象が教師になったりする。また、「ムカツキ対象」に自分がならないように、過度の気づかいをしながらつながっている。そしてその気づかいに気づかずに指導を進めようとする教師に対していっそうの批判の目を向けるのである。 さて、彼らが問題行動を起こしたりパニックにおちいるのは、学級全体で一斉に何かを進めようとするときが多い(もちろんその中に授業も含まれる)。なぜなら彼らの共通した価値観は「何をしようとも個人の自由」であり、「気に入らないこと、やりたくないことは拒否」することに価値を見いだし、そういったことを拒否する「勇気」を持ちたいとさえ思っているからである。誰か一人が、あるいはどこかのグループが指導を拒否したとたんに、クラス全体が指導拒否の歯止めがきかなくなるのはそのためである。 そしてこれらの子どもたちが起こす行動が、クラスの問題として表面に突出し、さらにそれに対しての教師の指導がスレチガった時に「学級崩壊」がしのびより、その中で教師が職場の中でも孤立し、父母の信頼をも失った時に、「学級崩壊」が決定的なものになってしまうのである。 2.教師に何が起こっているか ひとつは、前述した子どもたちの指導のむずかしさの壁である。 二つ目は、以外と語られていないのであるが、「学校」と高学年教師との距離の問題である。高学年は学校全体にかかわる仕事がどうしても多くなる。一年生の「お世話」から始まり、それぞれの行事や作業の準備等々、高学年の児童にまかされることが多い。とすると、どうしても教師は、「学校の顔」で子どもたちの前に立たざるをえなくなるケースが増えてきて、子どもたちとのスレチガイの場面が多くなってくるのである。つまり、高学年教師は、「学校」との距離が近い位置にいるのであり、反学校的な子どもたちのまなざしに一番さらされやすいのである。このことは、学校づくりにおいて常に革新的な視点を持っている教師が子どもたちに支持されるといったこととも無関係ではない。 三つ目は、高学年に限ったことではないが、父母とのスレチガイの壁である。教師は私も含めてその仕事柄、どうしても『自分はどんな人間よりも人生経験が豊富で、何事に対しても指導できるものだ』と錯覚してしまいがちである。しかし冷静に考えてみるとそんなことはありえないわけで、すべての父母は私たちが知らない人生を生きている人ばかりなのである。そもそも、人それぞれが人生のなんらかの「事情」を背負いつつ生きているのだし、もしそのことによって子育てがうまくいかなかったり、家庭が壊れてしまっても、それは誰にもせめられないのである。それなのに私たちはついつい親に対して家父長的に「もう少し愛情をそそいであげてください」とか、「〜するべきではないでしょうか」などと言ってしまうのである。そして結果的には、教師や学校に不信感を持ってしまったり、そのことによって親がよけいに追い込まれたり、追い込まれるがゆえに子どもによけいに当たってしまったり、時には暴力をふるってしまうといったことも少なくないのである。 父母も教師も、現代という同じ時代を生き、それぞれが大きな大きな「事情」を背負いつつ生きている人間としてお互いにわかりあいながら、一方でその役割を果たして手をつなぎ、未来に生きる子どもたちを一緒になって育てていくことが今求められているのではないだろうか。 3.高学年の指導のテーマ 一つ目は、子どもたちの気づかいを肯定的にとらえる発想の転換をすることである。それは、「後ろ向きな気づかい」から「前向きな気づかいへ」の転換と言ってもよい。前述したように子どもたちは、自己防衛のために過度な気づかいをしながら生活している。にもかかわらず、教師はそのことに目を向けないで、「みんなクラスの仲間だ!」「本音でなんでも言えるクラスにしよう!」などと最初から呼びかけるので子どもたちから拒否されるのである。そこで発想を転換して、最初はなにもかも本音で話す必要はないこと……、むしろお互いの思いを気づかいながらの関係が大切であることを語りながら、自分を守るためだけの気づかいから、他者をも守る気づかいに転換していくのである。そのことは一方で、決めたこと以外はやる必要はないし、いつわりの無理な仲間意識も必要ないことを最初は教えるのである。 二つ目は、遊び的な要素を持つ取り組みをたくさん導入し、彼らに、みんなで一緒に行動することの中に、「これはたかが遊びだから……」といった逃げ道を作ってあげることが大切である。そしてその過程で、みんなと一緒になって行動することの楽しさを十分経験させることである。またそのことによって、教師もまた遊び心を取り戻し、肩の力が抜けていくものである。 三つ目は、書くことの指導の見直しと、一人ひとりとの、書くことによるパイプを太くしていくことである。最近の実践報告の中に、子どもの文章があまり出てこないことが気になっている。もっともっと子どもたちに「書かせる指導」が必要ではないだろうか。そして教師もまた遠慮せずに、子どもたちにメッセージを発信したり、子どもたちとのコミュニケーションを深めていく必要がある。また、「ムカツク」の一言で全てをすませてしまうような今の子どもたちに、言語表現能力をつけていくことは重要な実践課題であるとも考えている。 四つ目は、教室の外に発信していけるような取り組みを自分の教室から生みだしていくことである。それは、歌声・ダンス運動でもいいし、ビデオ鑑賞運動でもよい。とにかく自分たちが主体となった取り組みを学校に広げていくのである。それは、小学校の児童会活動が形骸化してしまっている現実の中で、教室からの児童会再建運動でもある。 五つ目は、社会に開いた授業の創造である。今の学校は一見開いているように見えて、外からの進入は許すものの、内から外に向けての発信といった視点が弱い。授業を通してそういった学校の開き方の創造が今求められている。 そして最後に、問題行動をしめす子どもや親との対話からその関係性を作り直していくことである。その過程でまず教師自身が、自分の中にすみつき、子どもたちから見るとムカツイテくる家父長的な教師の権威主義をそぎ落としながら、真に子どもたちに必要な指導とメッセージが送れるような関係性を再構築していくのである。そしてその過程でこそ、子ども一人ひとりの思いや叫びが見えてきて、真に熱い教師のメッセージが届くようになるのではないだろうか。 |