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持ち物検査−「指導」と「管理」−

持ち物検査について述べてみたいと思います。実は私は持ち物検査をやっていいとかいけないとかが話題になっていたことについて、当初その意味がよく分からなかったのです。理由は「持ち物検査」(?)は指導として必要な時はこれまでにも私はやってきたからです。

たとえば、○○君が変なものを持ってきていると聞けば、その子の持ち物を見せてもらって指導します。教師は今更文部省に言われなくても、昔から法律的にもそういったことが許されているのです。

また、小学校では持ち物をどのように自分で管理するかという指導はとっても大切な指導になってきます。たとえば机の中の整理の仕方などです。最近ではそれができない子が増えてきていますから、丁寧に指導する必要があると思っています。そんなことは家庭の問題だということではなくて、全家庭に「こういったことができない傾向にありますよ」と呼びかけながら連絡をとりあって学校でも指導するのです。これは6年生の子でも同じです。そしてその指導の過程で、子どもの持ち物を自然に知ることになるし、時々必要のないものやそれこそ危険なものを持っている子がいたらその都度持って帰らせます。

私が言いたいことは、中学生であろうが高校生であろうが、持ち物の指導をすることは必要だということです。しかしどうやら世間で話題になっている持ち物検査は所詮取り締まりであって指導ではないのではないかという疑いを持ち始めています。集団的に、しかも身に覚えのない者まで含めて、その事情も聞かずに持ち物を調べられるといったイメージがあるのです。もしそうでない持ち物検査の方法をイメージされているのなら、ぜひその具体的な方法を教えてほしいと思っています。もしそのイメージ通りだとしたら、それは子どもとの信頼関係を崩すだけで、今回の問題の根本的な解決にはなりません。いや、もしかしたら一時避難的な解決になるかもしれません。しかしその次にはもっと恐ろしい問題が出てくるような気がします。つまりこの問題は、そこに「指導」がなければならないと思うのです。

では「指導」とはなんなのでしょうか。取り締まりとはどう違うのでしょうか。

私は「指導」とは、相手をその気にさせることと、方向づけることだと考えます。そして「その気にさせる」とは、誘うこと、そそのかすこと、やる気をおこさせることです。その事柄自体が持っているものについて「面白そうだ」「分かりたい」「やりたい」「食べたい」「着たい」などと思わせることです。また、「方向づける」とは、指導者が勝手に右へ行け、左へ行けと命令することではありません。私は「指導」は相手に拒否の自由、従わない自由を認めるものだと考えています。また、従わない自由を認めるからこそ指導者は心を砕いて相手の心をゆり動かそうと努めるのだと思います。つまり「方向づける」とは、当人の前にどんな可能性・必要・必然があるのかを明らかにすることです。このことを「見通しを明らかにする」と言い換えてもよいと思います。

さて今回のナイフの問題にかかわって、学校での持ち物検査についての世論が二分しているのはなぜでしょうか。私が考えるのに、この問題を「指導」の問題としてとらえるのか、「管理」(取り締まり)の問題としてとらえるのかがごっちゃになっているためと考えています。持ち物検査反対の人の意見を聞いてみると、この問題を「管理」の問題としてとらえています。持ち物検査賛成の人はこの問題を「指導」の問題としてとらえてといます。そもそも違うことを言っているのですからまとまるはずがありません。そして実は同じことを述べていることにも気がつかない場合が多いようです。私は指導が管理化してはならないし、管理が指導化してもならないと考えます。指導の問題と管理の問題はきちんとわけて考えなければならないと考えるのです。

そろそろ私の立場を決めます。

●指導としての持ち物検査は賛成。ただしそれはむずかしいが、粘り強く取り組んでいきたいし、これまでも取り組んできたつもり。
●取り締まり・管理としての持ち物検査反対、というよりは、それではこの問題の解決としては不十分であり、実際問題として無意味な場合が出てくる。隠し持っていればそれで終わりだし、もともと管理とはそういったことを生み出す特質を持ったものです。

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