[HOME] [教室からのエッセイ一覧] [ザ・教室 blog メイン]

新・管理主義教育を乗り越え、学校現場に笑顔を取り戻す

はじめに

昨年末(12月24日)の文科省の調査・発表によると2009年度にうつ病などの精神疾患で休職した全国の公立学校の教職員は、前年度より58人増えて5458人となり、過去最多を更新したとのこと。

いや、休職ではなく短期の療養休暇、または休んでいなくても薬を飲みながら仕事をしている者を含めると、この数字は、10倍以上になるのではないでしょうか。

そして2010年度はさらに増えているはずです。

文科省は、多忙な職務や保護者からの要望多様化、生徒指導の複雑化、職場の人間関係のトラブルなどが要因と分析していますが、その対策は何もなし。教師が元気の無い現場で、子どもがまっとうに育つはずがありません。まずこの当たり前のことがわかっていません。公約であった35人学級もやめてしまいました。国はいったい日本の教育をどうしたいというのでしょうか。教師や子どもたちを苦しめるだけ苦しめておいて、その先はまったく見えていないようです。

身近にも2学期直前に、血の悔し涙を流しながら命を落としてしまった20代の仲間もいます。私たちは、こういった悔し涙、そして悲しみの涙を、もう二度と流すことのない現場をみんなの手でつくりあげていかなければなりません。特に私たちの世代は、このままの状況で次の世代に引き継ぐわけにはいかないのです。

そのためには、私たちを日常的に苦しめているものの正体をあばき、それに対抗しうるものをつくり出していくことが大切です。

1.新・管理主義教育

最近の学校現場は次のような特徴があります。

それは、上から(教師から)の指示・命令に素直に従える子どもづくりをしながら、一方で指示・命令に従えない子はダメな子どもとして簡単に切り捨て、それをその子自身の「問題」や保護者の責任にして放置するといった特徴です。

簡単に切り捨てることや責任転嫁をすることが以前よりも目立った特徴としてあるので私はこれを「新・管理主義教育」(以下、新管理主義)と呼ぶことにします。

また、新管理主義は、子どもたちを「人間としてのデキ」として見る傾向があります。
「人間としてのデキ」とは、

1.受験学力が高いこと/2.無批判な素直さ/3.偽りの気遣い能力

ということらしいです。

この三つのことができない子、または教えてもそうならない子を「デキの悪い子」として切り捨て、本人や保護者の子育ての責任としながら放置するのです。

保護者は、子どもの「デキ」が悪いと、学校からだけでなく地域からも排除されてしまうといった恐怖から、学校に強い不満と不信感を持ちつつ、ますます支配的・干渉的な子育てにならざるをえなくなっています。

そんな中で子どもたちは、信頼できる他者がみつからず、まわりの全てが、自分をしばり、評価する存在としてうつるので、者・物と和解できないでいます。自己中心的・暴力的に他者と関わったり、持ち物を乱暴に扱う子が増えているのもこういったことと無関係ではありません。さらには、大人(親・教師含む)不信、教師不信、仲間不信、そして自分不信と未来不信を持ってしまう子どもたちも増えています。

そして生き方としては、他者・自己に不信を持ちつつその流れに身をまかせて何も考えずに生きるか、逆に暴力的に出るか、極端な親密性の中に身を潜めて馴れ合うか、それができない場合は自分自身の存在を隠してしまうかといった選択を迫られているようにも見えます。

私たち教師はそんな子どもたちの苦悩に理解・共感し、信頼できる他者として登場して、信頼できる他者との共同・協同の道を指導の道を指導していく必要があるのではないでしょうか。

2.追いつめられる教師たち

最近の学校は、子どもたちを簡単に切り捨て、放置する傾向があると書きました。それでは、どうしてそのような現場になってしまったのでしょうか。

その答えのキーワードは、『責任転嫁』です。

このキーワードを考える前に、日本の学校が、子どもたちを簡単に切り捨て、放置するようになってしまった原因を考えてみます。

原因の一つ目は、学校が文科省を頂点とした上からの指示に従うだけの現場になってしまったこと。

そして二つ目が、学校の役割が、『サービス化』し、そのサービスの質によって、学校や教師が評価されるといったシステムがつくり出されてしまったこと……。

この二つだと考えています。

教育・子育ては本来、上から提供される「サービス」ではありません。それぞれの地域に根ざし、地域の人たちと一緒になって取り組むもののはずです。それがサービスとして位置づけられてしまったのですから、うまくいくはずがありません。保護者の要求が多様化し、どんどん高くなっていくことは当然なことなのです。

「教育サービス」に対応できなくなってしまった学校は、さかんに責任転嫁をはかるようになりました。それが今の状況です。たとえば……、

最近、私たちのまわりでは、指導のマニュアル化、統一化が細かいところまで(授業のはじまりの挨拶の仕方まで)進められる傾向があります。

これは、表向きは「学校間・教師間の連携」「指導の共通理解」という顔を見せながら、実は『責任回避・責任転嫁』の発想であることに注意を払わなければなりません。

つまり、指導内容・方法を統一することで、「上」は責任を果たしているとアピールし、一方で、それができないのは教師個々の問題であると責任転嫁ができるということです。

たとえば一人の教師の指導がうまくいかなかった時には、
「学校としては、これこれ〜こういったマニュアルをきちんと出しています」
「それができないのは、その教師に責任があります」
というふうに利用できる、ということです。

また、こうして指導の自己責任を強いられる教師たちは、ねじふせ、切り捨て、放置する指導?にハシル傾向にあります。マニュアル化・統一化された指導方法・指導内容の中では、そこからはみ出す子については、ねじふせてでも従わせざるを得ないからです。

しかし、どうしてもそこからはみ出してしまう子が出てきます。そういった子は簡単に切り捨て、保護者の責任にしながら放置する傾向も出てきたというのが今の学校現場の状況です。

それでも日本の教師というのはまだまだ良心的なのです。どうしてもできない子をどうにかしてあげたいと日々悩みながら仕事をしています。「マジメ」「誠実」な教師ほど体調を崩す傾向があるのはこのためです。

さらには、こうした、教師の質が評価される現場では、だれかをダメ教師にすることで職場がまとまるといった「いじめの構造」に似た状況が出てきます。そこでは常に誰かがカゲで批判されているといったことも生まれてきていて、ますます教師たちは追いつめられていくのです。

私たちは、「教育実践の自由」の声をあげつつ、子どもたちに誠実に向き合っている仲間と手を結びながら、支え合い・高め合いのある職員室を早急に取り戻していく必要があります。

3.教師のまわりに子どもたちが群れていない

以上のような、新管理主義の中で最近気になっていることがあります。

それは、教室でも、校舎の廊下でも、そして校庭でも、教師のまわりに子どもたちが群れていないことです。

以前は、教室の前の教卓のまわりに子どもたちが集まり、担任にいろいろなことを話しかけている風景がありました。休み時間には、教師の背中や腕にぶら下がっている子どもたちの風景がありました。廊下では、他学年・他クラスの子どもたちでも、子どもたちの方から教師に話しかける風景がありました。

そんな風景が現場に少なくなってきたのはいつ頃からなのでしょうか。

私たちは、こういった現場の変化にもっと敏感にならなければなりません。そして、子どもたちからはたらきかけてこなくなったのなら、教師の方から大いにはたらきかける必要があるのではないでしょうか。

ちょっと前までは、教師が廊下の曲がり角に隠れて、子どもたちがきたら「ワッ!」とおどかすことができる関係は、笑い話ではなく、教師のスタンスとして基本・当然だったような気がするのです。それができなくなった現場って、いったいどうしてしまったのだろう?と思うわけです。

学級づくりを始めるにあたって、教師と子どもたちが、どのような関係をつくりだしていくのかは重要です。そして、その関係づくりの中で、どのように「指導」をスタートさせていけば良いのかを、

○子どもたちとの距離
○子どもたちへの「はたらきかけ」

の二つの視点から提起してみたいと思います。

4.なめられるくらいが調度いい!(子どもとの距離)

「子どもになめられてはいけない」
最近、若い教師が管理職や先輩教師に指導?されている光景をよく目にします。

同様に、若い人たちの指導がなかなか入らない状況に対して、
「あなたは子どもとの距離が近すぎる」
「子どもたちと友だちじゃないんだから、もっとビシッと指導するべき」
といったこともよく言われるようです。

さらには、子どものことを知ろうと、休み時間に子どもたちとたくさん遊んでいる教師に対して、「子どもの機嫌をとっている」と批判する、残念な雰囲気の現場もあるようです。

そんな最近の教育現場の雰囲気の中で、若い人たちだけでなく、ベテランも含めて、子どもたちを支配・調教するような「指導?」が広がっています。

そして、教師の意図通りに動かない・動けない子どもたちは、問題児として切り捨てられたり、保護者に責任を負わせつつ放置されたりしています。
 誤解を恐れずに書くならば、私は、子どもたちを、教師という肩書きや立場、排除の恐怖や評価のおどしで、ねじふせるくらいなら、
「なめられるくらいが調度いい」
と思っています。

なぜなら、子どもの「事情」(生活背景)を知るためには、子どもとの距離を近くすること、そしてその「接近」が許される関係になることは重要なことだからです。

私たちの指導は、子どもたちの「事情」(生活背景)を理解し、時にはその「事情」(生活背景)関わりつつ、彼らの自立を励まし、集団・社会の主人公として生きていくことを励ましていくことです。

しかし、ねじふせ・切り捨て・放置する「指導?」は、子どもたちの心を閉ざします。子どもたちの心が閉ざされていると、子どもたちの「事情」(生活背景)が見えなくなります。つまり、指導が成立しなくなるのです。

また、ねじふせ・切り捨て・放置する「指導?」の教師のスタンスは、
「わかってくれない教師」
「話を聞いてくれないから言ってもしかたがない」
と子どもたちから逆に切り捨てられることもあります。

そういった学級は、教師のパワーが大きい時には、一見、落ち着いている学級のように見えるのですが、実はかげでいろいろな問題が発生・進行してしまう危険性があります。そしてなんらかのきっかけでその力関係が逆転した時に、あからさまに指導を拒否するといった学級崩壊状態になることもあるのです。

ちなみに、「なめられるくらいが調度いい」というのは、なめられてバカにされてもいい、ということではありません。今の「調教主義」の現場の中では、なめられるくらいの気持ちで子どもたちに接近する必要があるということを言いたいわけです。

また、距離を近くするということは、いつも近い状態で良いということではありません。接近したり離れたりの間合いが必要になってくるのですが、そのことについては今回は触れません。

大切なことは、子どもの「事情」(生活背景)を知ることは指導のベースでもあり、それを一緒になって改善・前進させていこうとする教師のスタンスにこそ、子どもたちや保護者は信頼を寄せてくれるということです。

だとしたなら、その教師のスタンスを学級づくりのスタートに大いに子どもたちに示すことが大切ではないでしょうか。

5.子どもたちに「はたらきかける」ことから

最後に、子どもの「事情」(生活背景)を知り、それを一緒になって改善・前進させていこうとする教師のスタンスに立つための、三つのキーワードを提起しておきたいと思います。

●はたらきかけ、丁寧に聞き取り、対応する
学級スタート時で、まず大切なことは、「教師から大いにはたらきかける」ことだと思います。これは、子ども個人にはたらきかけることと、集団にはたらきかけることの両面があります。そして教師からはたらきかければ、子どもたちは必ずなんらかの反応を示します。その反応を丁寧に聞き取り、対応することが大切になってきます。

●『なぜ?』を実践する
子どもたちの反応は、教師のはたらきかけに対して反抗的・批判的、あるいは無関心であることも多いと思います。しかしそんな時にこそ、『なぜ?』と考えてみましょう。この、『なぜ?』と考えることこそ、子どもの「事情」(生活背景)を知る指導の第一歩だと思います。

ちなみに、子どもの「事情」(生活背景)とは、その子の家庭環境や成育歴についての「理解」だけではありません。その子が学級(生活集団)のどのような力関係の中で生きているのかを知ることでもあります。ゆえに、子どもの「事情」(生活背景)もまた、個人的な分析と集団的な分析が必要になってきます。

●拒否されることも見通す
さて、もうお気づきのように、教師の「はたらきかけ」とは、学校・教師の価値観や一方的なルール、マナーを子どもたちに押し付けることではありません。教える内容を絶対化し、それを押し付けようとすればするほど、それをやらない子、やりたくてもできない子を問題視することにつながってしまうので注意したいものです。そうなるとあとは、ねじふせ・切り捨て、放置するしかなくなってしまいます「はたらきかける」とは、常にそれが拒否されることも見通しておかなければなりません。誤解を恐れずにもっと言えば、子どもに拒否する権利が保障されるのが「はたらきかけ」であって、私たちの「指導」なのです。

一方で、やりたくてもできない子の声や居場所を、教師や学級集団が保障し、支援を約束しているのかも重要になってくることも付け加えておきたいと思います。

おわりに
都市部では、新採用が増え、職員室に若い教師たちが増えてきました。この傾向は今後地方にも広がっていくのだと思います。実は、若い教師たちはすでに気がついています。

偽りの教育サービス/偽りの研修/偽りの教師評価

そしてこんな「偽り」をまとった体では、子どもたちはついてきてくれないことを。そしてその「気づき」は、自主的な教育研究サークル(ここでは、浦安生活指導研究協議会)に結集することにつながっています。

私たちはこうした若い人たちの真摯な学ぶ要求に応えていく必要があります。いや、若い人たちと手をつなぎながら、教育実践の自由を取り戻す闘いを始めなければなりません。それが2011年です。

7月30日(土)〜8月1日(月)に、明海大学浦安キャンパスで、全生研の全国大会が開催され、この大会には全国から1000名を超える参加があるはずです。私たちはこうした取り組みを通して若い人たちとも手を結び、新管理主義を乗り越え、学校現場に自由と笑顔を取り戻していく必要があります。

基調のおわりに、実践のキーワードを3つ提起しておきます。

(1)子どもたちを集団的にとらえること。
人間は、個体では成長し、生きてはいけません。そのまわりには、彼を生かしている他者が存在し、彼もまた他者に働きかけながら生きているのです。だとしたら、子どもたちが生きている集団を変えていかない限り、その子は変わらないということです。このように考えることを、”子どもたちを集団的にとらえる”といいます。

(2) 子どもたちの自立に向けた集団づくりの道筋を明らかにする。
子どもたちを集団的にとらえ、その集団を発展させることにより子ども一人ひとりの自立を促す指導方法を「集団づくり」と呼びます。その「集団づくり」においては、集団を発展させる指導の道筋があります。その道筋を、今年度は実践レポートを通して具体的に明らかにしていきたいと思います。

(3) 教師としての生き方を決意する。
教師もまた一人では生きていけないし、成長できません。現場に、自由と笑顔を取り戻し、私たち自身も自立し、成長し続けることのできる教師になるために、多くの仲間と連帯・仲間づくりをしていく必要があります。そしてその連帯・仲間づくりは、偽りの職員集団から、真実の声に裏付けられた、本当の意味で子どもたちのために行動する職員集団になっていくことにつながるのではないでしょうか。

2011年2月19日(土)