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全生研全国大会千葉浦安大会
「荒れ・暴力」の指導と集団づくり小学校分科会基調提案


一 「荒れ・暴力」の背景を分析する

昨年度のこの分科会の基調提案で、「荒れ・暴力」の指導について、取り締まり・体制適応指導ではなく、「共同・自立・変革の集団づくりの指導」にシフトを変えていくことの重要性を提起した。

そしてその実践過程において、子どもたちの生活背景の分析が重要であるとして「荒れ・暴力の背景分析 10の視点」を提起した。つまり「荒れ」る子どもたちの背景を分析し、その背景を子どもたちと一緒になって考え、変えていくことこそ大切な指導の視点であるとしたのである。今年もまずその視点を提起してみたい。昨年度のものを若干修正してある。

★荒れ・暴力の背景分析 10の視点 (2011年5月改訂)

【どんな「大人」と出会ってきたのか】
1.保護者とその子との関係性の分析
・保護者のしつけの方針や学力に対する向き合い方など。
・子どもは親を自分の中にどうとりこんでいるか。
2.保護者の苦悩の分析を横並びで。
・子どもとの関係の苦悩。
・子育てをめぐって、夫婦間や祖父祖母との関係の苦悩。
・その地域で生きることの苦悩。
3.その子のこれまでの教師との関係性の分析。
・何に反抗し、学校にどんなメッセージを発信してきたのか。
・その子にこれまで関わってきた学校・教師の「指導」のスタンス。
4.これまでの学校での「扱われ方」
・たとえば軽度発達障がいで引き起こす行動・言動に対して、強圧的に押さえられ「二次的・三次的な障がい」を引き起こしていないか。
・髪型、服装、態度によって「職員室の中で」レッテル貼りがされていないか。
・学力の遅れが放置されていないか。
5.地域での先輩や友人関係の分析。
・「学級」を超えた仲間関係。

【どのような「仲間関係や文化」の中で生きている(きた)のか】
6.人権を侵害し、仲間を傷つける「ちゃかし文化」の集団で生きてきていないか。
7.「学力」「運動」等々に対して子どもたちの中に「できる・できない」の力関係が存在していないか。
8.「空気を読む・読まない」「ひく・ひかない」「クライ」「トーンが違う」といったことで差別・いじめはないか。

【教師の自分自身の苦悩】
9.自分自身の苦悩や弱さが、その子を荒れや暴力に導いていないか。
・その苦悩が「苦悩」に値するものなのかどうかの分析。
・苦悩があるとしたらそれはどこからきているのかの客観的な分析。
(実践的な課題や職場の力関係の分析等々)
・だれもが「弱さ」の中で実践しているといった気づきの大切さ。
10.自分が元気が出る時間や場所はどこなのかの気づき。
・自分が仲間の中で支え、支えられの関係の中で生きていることの自覚ができているか。

二 「荒れ・暴力」を再生産する「新管理主義」

最近の学校現場はそれは、上から(教師から)の指示・命令に素直に従える子どもづくりをしながら、一方で指示・命令に従えない子はダメな子どもとして簡単に切り捨て、それをその子自身の「問題」や保護者の責任にして放置する傾向がある。

簡単に切り捨てることや責任転嫁をすることが以前よりも目立った特徴としてあるので、私はこれを「新・管理主義教育」(以下、新管理主義)と呼んでいる。

この「新管理主義」は、子どもたちを「人間としてのデキ」として見る傾向がある。「人間としてのデキ」とは、1.受験学力が高いこと/2.無批判な素直さ/3.偽りの気遣い能力/ということらしい。

この三つのことができない子、または教えてもそうならない子を「デキの悪い子」として切り捨て、本人や保護者の子育ての責任としながら放置するのである。

保護者は、子どもの「デキ」が悪いと、学校からだけでなく地域からも排除されてしまうといった恐怖から、学校に強い不満と不信感を持ちつつ、ますます支配的・干渉的な子育てにならざるをえなくなってきている。

そんな中で子どもたちは、信頼できる他者がみつからず、まわりの全てが、自分をしばり、評価する存在としてうつるので、者・物と和解できないでいる。自己中心的・暴力的に他者と関わったり、持ち物を乱暴に扱う子が増えているのもこういったことと無関係ではない。

さらには、大人(親・教師含む)不信、教師不信、仲間不信、そして自分不信と未来不信を持ってしまう子どもたちも増えていることにも注意したい。

こうした中、子どもたちの生き方は、他者・自己に不信を持ちつつ、その流れに身をまかせて何も考えずに生きるか、逆に暴力的に出るか、極端な親密性の中に身を潜めて馴れ合うか、それができない場合は自分自身の存在を隠してしまうかといった選択をせまられているようにも見えるのである。

私たち教師は、まずはそんな子どもたちの苦悩に理解・共感し、信頼できる他者として登場して、信頼できる他者との共同・協同の道を指導の道を指導していく必要があることをあらためて述べておきたい。

三 「指導」を「責任問題」から切り離す勇気と仲間づくりを

「荒れ・暴力」の指導は、「責任問題」ではない。

しかし最近の学校は、教師個々の責任を追及したり、教師個々に責任転嫁をしてくる傾向がある。

そもそも「学校」側の「責任問題」とは、子どもたちの「荒れ」を上から押さえ込む形で沈静化することである。そしてそのための細かいマニュアルを出したり、表向きは「学校間・教師間の連携」「指導の共通理解」という顔を見せながら(最近では「チーム」という言葉が使われることが多い)、指導の統一化をはかりつつ、教師個々に責任転嫁をしてくる傾向にある。

指導の自己責任を強いられる私たち教師は、子どもたちをねじふせ、切り捨て、放置する指導?にはまってしまう危険がある。マニュアル化・統一化された指導方法・指導内容の中では、そこからはみ出す子については、ねじふせてでも従わせざるを得ないからである。

しかし、どうしてもそこからはみ出してしまう子が出てきてしまう。そういった子は、簡単に切り捨て、保護者の責任にしながら放置する傾向も出てきたというのが今の学校現場の状況ではないだろうか。

私たちは、「教育実践の自由」の声をあげつつ、子どもたちに誠実に向き合っている仲間と手を結びながら、支え合い・高め合いのある職員室を早急に取り戻していく必要がある。

「学校づくり」の視点……。実は「荒れ・暴力」の指導を考える上で重要な視点なのではないだろうか。

四 「荒れ・暴力」の指導を集団の発展と結びつけながら考える

「荒れる」子、「暴力をふるう」子の指導は、その子、個人の指導ではない。彼をとりまく集団の指導である。もっと言えば、彼が生きている「背景」の改革の指導である。

そういった意味で、その子と他の子どもたちとに、どのような関係をつくっていくのかが、まずは指導の重要なテーマになってくる。

さらに言えば、その子がつくりあげた関係が集団にどのような影響を与え、その集団を発展させていくのかの指導構想が必要になってくるのではないだろうか。

そこで、今年度のこの分科会で、時間の許す限り、以下の5つの視点で学んでいきたい。(具体的な討議の柱は分科会当日に)

(1) 「荒れる」子、「暴力をふるう」子の背景の分析について。
(2) 教師はその子とどのような関係をつくったのか。それができた(できなかった)原因を学校づくりの視点から考えてみる。(地域や保護者との関係も含む)
(3) その子は仲間とどのような関係をつくったのか。そのための教師の指導性について。
(4) 集団はその子をどのようにとらえ、受け入れたのか。そのための教師の指導性について。
(5) その子がつくりあげた関係が、学級集団や地域をどのように集団的に発展させたのか。