便利であるがゆえの不安

1.はじめに

佐世保の事件をきっかけにして、子どもが「インターネット」に関わることについての批判と警戒が相次ぎました。

事件のきっかけを、加害少女の掲示板に「悪口」を書かれたことであるとし、全国の学校で「子どもがどのくらい『インターネット』を利用しているのか」のアンケートを一斉に実施しました。

しかしそういった動きは、結局は「マナーを守らせましょう」「顔を突き合わせてのおつきあいが大切」といった結論に行き着いただけで、真の意味での事件の解決に結びつかなかったばかりか、結局は大人の「責任回避」(何か一つ原因を作っておく)の取り組みであったと言わざるを得ません。

ちなみに本誌の特集もこの事件を「インターネット」という切り口でとらえようとしていることに若干の疑問を感じています。しかしそれでも原稿を引き受けたのは、「インターネット社会」と言われている中で子どもたちの生活基盤が少しずつ変化してきていることが気にかかっていたからです。そこで、「インターネット」と子どもの生活について、佐世保の事件とは切り離して考えてみたいと思い、この原稿を引き受けました。

さて、「インターネット」と一口でいっても、具体的にどのような行為を指しているのか明らかではありません。そこでここでは、「メールを利用したコミュニケーション」にしぼって考えてみたいと思います。

つまり携帯メールも含めた「メール」を中心としたコミュニケーションが子どもたちの生活基盤をどのように変化させているのか、そしてそんな社会で生きる子どもたちの自立への実践課題はなんなのか、さらにはそういった課題に挑む実践の可能性を提起してみたいと思います。
 
2.子どもとのすれ違いの恐怖〜親子関係の変化〜

子どもたちや若者の間には、メールを中心としたコミュニケーションが「当たり前」の社会になりました。このようなメールコミュニケーション社会の広がりの中で、私はまずその親子関係に変化が生まれつつあると考えてみました。

地域の「不審者」から子どもを守るため……、夜の習い事の広がり……、といった中で、小学校低学年から子どもに携帯電話を持たせる家庭が増えてきました。場合によってはそれを学校にも持ち込んでいるケースもあるのですが、それに対して学校(この場合は小学校)も黙認するケースがほとんどです。

そういった状況の中で今後ますます子どもたちが小学生の段階から携帯電話を持つケースが広がることが考えられます。

さて、このような携帯電話の普及により、親は子どもの「現状把握」が容易になりました。

しかしそれは逆に言うと「子どもの現状(今)を把握していないと不安になる大人」を生み出したと私は考えています。

そしてその結果、これまで以上に親子の支配・被支配的な関係が強まっているばかりか、その一方で子どもは常に「親の『支配』を感じながら」生活し、そしてその関係を「報告」(嘘も含む)という形でのみ「維持」していこうとする親子関係ができつつあるとも考えています。

ちなみにこれは、メールコミュニケーションだけが原因だとは考えていません。しかしメールコミュニケーションが後押しする形で広がっているのは間違いありません。

さて、こういった関係は、常に親が「不安」を抱えて子育てをすることになり、その結果、極端な過干渉や放任、場合によっては子どもに対する「暴力」といった形で噴き出すこともあります。

また、親による学校へのこまかな報告の要求はこのこととは無関係ではないでしょう。

このように、多くの親は子どもとのすれ違いの恐怖の中で子育てを続けていると言えます。

3.新たな偽装

さて、携帯電話の使用方法は、中学年までは通話中心ですが、高学年あたりからはそれがメールに変わり、このあたりから友だち間でメールのやりとりが増えてくるようです。

友だちとのメールのやりとりは、女の子の方が早いという傾向があります。男の子はメールよりも自分でホームページを作ったり、掲示板に書き込んだりする方に最初に興味がいくようです。しかし今回はメールコミュニケーションを中心に考えてみたいので、このことについては触れません。

さて、メールでやりとりするには、自分のアドレスを相手に教える必要があります。自分のメルアドを相手に伝え、メール交換をする関係を子どもたちは「メル友になった」という言い方をします。

大人からしてみると、「メル友になった」というのはとても親密な関係になったのだととらえがちですが、よくみているとどうやらそうではないことに気がつきます。つまり、子どもたちは教室での関係とメールでの関係を上手に使い分けるようになるのです。

つまり、教室ではあまり話をしなかったり、グループが違う子ども同士が、メールではつながっていたり、ということがよくあります。

以前子どもにそのことを聞いてみたことがあるのですが、子どもによると「○○さんはメル友だけの関係です」という答えが返ってきて驚いたことがあります。子どもたちは教室でのグループとメールでの関係を使い分けていることにその時気がつきました。

私はそのことを「新たな偽装」という言い方をしています。

今の子どもたちは友だち関係について、私たちの想像を超えた気のつかい方をしています。特に女の子は、Aさんと仲良くするためには、Bさんとの関係を切らなければならないといった考え方をすることが多いのです。そしてそのために、「いろいろな自分」を使い分ける必要が出てきます。そこに「メールの世界」が加わることにより、新たな偽装の「道」が生まれたのだと思います。

子どもたちにとって「偽装」することで疲れることはないようです。むしろ「偽装」できない子が荒れる傾向さえあります。

しかし「偽装」し続けるのはやはり疲れるのだと思います。またここでも常に「不安」が伴っているのではないでしょうか。

新たな自分を発見し、自立への道を開いていくためには、「偽装」は疲れることであることを早く教えてあげる必要があるのだと思っています。
 
4.メールで完結しないこと

親子関係のお互いの不安……、そして友達関係維持の疲れと不安……、これらはいずれも、便利になったように見えるメールコミュニケーションが生み出した新たな「不安」だと考えています。

私たちはメールコミュニケーションを、「不安を生み出す装置」から、「子どもたち(大人にとっても)にとって『安心』と自分発見のための『道具』」にしていかなければなりません。

私は、そのためにはまず、「メールで完結させないこと」を意識することが大切だと考えています。

「完結させない」ということは、「使わない」ということではありません。むしろ積極的に利用し、そこから「自分発見の道」へ開いていく利用方法が求められているということです。

そのためにはまず、メールはあくまでも次の行動・対話への「橋渡しツール」であると考えることが大切です。

つまり、メールで連絡をしたとしても、大切なことはその連絡によって段取りされた「行動・対話」であると考えています。

確かにメールでも討論ができないことはありませんが、それをやるにはお互いにかなりメールに慣れていなければならないし、少なくとも私の経験ではその中身がなかなか深まらないことが多いのです。

そればかりか、逆に誤解を与えてしまったり、それがもとでトラブルになってしまうことさえあります。

メールコミュニケーションの広がりにより、時間と場所を超えたコミュニケーションが可能になりました。しかし、その便利になった分の時間をどのように使うのかこそが大切だと思います。

5.メールでならつながれる関係を大切にする

次に私が意識しているのは「メールでならつながれる関係を大切にする」ということです。

さきほどメールでのつながりを「新たな偽装」と表現しましたが「メールでならつながれる関係を大切にする」とは、そのウソの関係をつくるということではありません。

たとえば教師に対してなかなか「自分」を出してくれない子どもがメールでならつながれるのであれば、それを大いに利用しようということです。

しかしこれも「メールだけで完結しない」ということを常に意識していかなければならないことは言うまでもありません

たとえば私は、子どもとメールでやりとりする時は必ず次の日に「昨日のメール読んだ?」と聞くことにしています。

メールでならつながれる子ですので、最初は大抵「ウン」と恥ずかしそうに頷くだけです。しかし次第にそれがきっかけとなり、いろいろな話ができるようになった経験を持っています。

また、メールは同時に複数の子に同じ文章を送ることができますから「このメールは○○さんと、△△さんに同時に送っています。」という書き出しのメールを送ることで、その二人の関係をメール以外の場でもつなげることができた経験もあります。

またこれは保護者のみなさんとの関係においても同様です。

電話や連絡帳ではなかなか伝えられないことでもメールでなら気軽に連絡・相談ができるといった保護者の方が増えてきています。それだったらそれを大いに利用して、学校・教師の敷居を低くしつつ、つながりを広げていくべきだと考えています。

しかし繰り返しますが、この場合でもアフターケアが必要です。最終的には、実際に会って話をすることが大切です。

ここでおもしろいことは、いきなり会って話をする時よりも、事前にメールでやりとりしていた方がスムーズに話が進むことが多いということです。

6.おわりに

さて、ここでは書ききれませんでしたが、メールコミュニケーションは、子どもたち・若者の文章表現にも大きな変化を与えていると考えています。

あれだけ文章でのやりとりをしているのだから作文力が向上してもいいのではないかと思うのですが実際には逆で、口語体で文章を書くことが苦手な子ども・若者が増えてきています。

つまり、だれかに伝える形での「おしゃべり文章」は書けるのですが、自分を客観的に見ながらあらためて自分の「思い」を文章で書き表すといった作業ができない子が増えてきているということです。

しかし逆に言えば、少なくとも文章でのやりとりについては抵抗がないわけで、そこに依拠してあらためて「書く」ということの指導の見通しが持てるのではないかと考えています。

「不安」から「安心・共同へ」の道筋は、「書く」ことをあらためて見直しながら指導していくことも大切ではないかと考えていることを最後に付け加えておきたいと思います。

(2004/11/7 雑誌「ちば」66号原稿下書きとして)

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