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熱く語る教師があぶない?

、どんな教師が子どもたちに拒否されてしまうのかの一つとして、「熱く語る教師」というのがあります。

子どもの思いや、教室(集団の)のトーンに無頓着で、自分の世界だけで、やけにハイトーンの教師も同様です。たぶん自分の思いが強すぎるのだと思います。

そういうった先生は、すごく一生懸命なのですが、結局やっていることは、子どもたちの思いやその場のトーンを無視した価値のおしつけでしかないのかもしれません。子どもたちはその部分を拒否するのかも……。

私は、組合や全生研の学習会でそういった表現力豊かな前向きなトーンの先生によく出会います。しかし以前から私はそんな先生にはついていけないなあと感じていました。

たとえば、いきなりみんなの前に出てきて、「さあ!みんなで手をつないで歌いましょう!」などと言われても、冗談じゃないと思ってしまうのが私なのです。そんなハイトーンの先生を見ていると恥ずかしくなってきてしまうのです。そして教室で自分ではやるくせに、そういった場で自分がみんなと一緒に歌ったりレクレーションをやったりするのがいまだに苦手です。なのに一方的に「はい、やってみてください!」「照れてないで!」とみんなの前で言われてしまうとよけいにできなくなってしまって、黙って会場から出てしまったこともありました。そしてそんな自分にコンプレックスをもっていたものです。

しかし、どうやら今、大変な苦労をしているのは、そういった先頭にたってがんばってきた「熱い先生」に多いようなのです。

こういった教師は、意外に子どもたちのカゲの評価に気がつかないことも多いようです。自分が子どもたちに支持されていると思い込んでしまいがちです。支持されていないことを自覚して、いろいろ工夫をするのであればいいのですが、支持されていると思い込んでしまうので、自分を高めることをしなくなってしまいます。今までの経験やモノサシですべてを語ろうとします。そして自分が受け入れられないのは子どもに問題があるからだと考えてしまいがちです。一生懸命な先生であればあるほど、こういった落とし穴におちいりがちなのです。

熱く語ること、前向きなトーンを否定しているのではありません。むしろ今こそ教師が子どもたちに熱いメッセージを発信していかなければならない時代だとも思います。しかし、その時の子どもたちとの関係性や思い、そして集団のトーンを無視して語っても、それは子どもたちには届かないし、価値の押し付けに対して敏感な現代の子どもたちに拒否されてしまうのです。また大げさな表現は、なじむ・なじまないといったことにも敏感な「気づかい世代」の子どもたちには、クサイ、ウザイと、拒否されてしまうのです。

た、「熱い教師」は父母ともすれちがっているのに、それに気がつかないことが多いです。自分はどんな人間よりも人生経験が豊富でしかも日常的に組合や研究会で学んでいるので、何事に対しても指導できるものだと思い込んでしまう傾向があるからです。でも冷静に考えてみるとそんなことはありえないわけで、すべての父母は私たちが知らない人生を生きている人ばかりなのです。そんなあたりまえのことがついつい見えなくなってしまうのです。

そもそも、人それぞれが人生の重荷を背負いつつ生きているのだし、もしそのことによって子育てがうまくいかなかったり、家庭が壊れてしまっても、それは誰にもせめられないのです。なのに「熱い教師」は親に対して見下すように、家父長的に「親がもう少ししっかりしなさい」とか、「〜するべきではないでしょうか」などと言ってしまうのです。そのことによって親がよけいに追い込まれたり、追い込まれるがゆえに子どもによけいに当たってしまったり、時には暴力をふるってしまうといったことも少なくありません。

父母も教師も、現代という同じ時代を生き、それぞれが大きな大きな重荷を背負いつつ生きている人間としてお互いにわかりあいながら、一方でその役割を果たして手をつなぎ、未来に生きる子どもたちを一緒になって育てていくことが今求められているのではないでしょうか。

父母や子どもとのすれちがいや拒否の関係におちいらないためには、まず対話からその関係性を作り直していかなければなりません。そしてその過程で、自分の中にすみつき、子どもたちから見るとムカツイテくる家父長的な教師の権威主義をそぎ落としながら、真に子どもたちに必要な指導とメッセージが送れるような関係性を再構築していきたいものです。そしてその過程でこそ、子ども一人ひとりの思いや叫びが見えてきて、真に熱い教師のメッセージが届くようになるのではないでしょうか。

('99.5.1)

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