教師としてどう生きるかが問われる年に

 今年、父が他界しましたので、新年のご挨拶はひかえさせていただきます。

 その代わりに、2006年最後の日に、2006年の日本の教育の動向を振り返りつつ来年(2007年)へのメッセージを書かせていただきます。

■ 教育基本法改正は憲法改正への大きな一歩

 今年のお正月、私は次のように書きました。

〜前略〜

こうした教師個人の意見表明権の規制や教育の自由の規制は、単なる「学校責任」という問題だけではなく、今年が憲法改正を進めるのに重要な年になると考えられていることとリンクさせて考えなければなりません。

〜後略〜

 先日の教育基本法の改正問題は、私の予想した通り、憲法改正への大きな一歩になりました。

 教育基本法は憲法の理念によってつくられたものですから、本来ならばそれを改正するためには、まず憲法を先に改正しなければならないはずです。しかし、教育基本法を先に改正したということは、既成事実を先に作っておいて後から「おおもと」を変えていく……、「現実的にはこうなんだから、変えるしかないじゃないか」という方向に持っていこうとする意思が感じられます。

 いずれにしても、今回の教育基本法の改正で、国が現場の教育内容にまでどんどん入り込み、そのための教師の管理統制を厳しくしていく……、それが来年の動きではないでしょうか。

 時の政府が教育内容に介入してはいけないということは、先の戦争の大きな教訓だったはずです。教育の自治を守ることこそ、日本の平和を維持していくキーワードだったのではないでしょうか。それが、いとも簡単に崩されてしまいました。

■ 教育の荒廃は

 政府の言い分は、今日の教育の荒廃は、戦後の民主教育にあること。そして「個」を重視するあまり、「公」に生きることを教えてこなかった…、ということらしいです。

 しかしここでちょっと待ってもらいたいのは、こうした戦後教育を進めてきたのは、文部省・文科省だったはずです。私たち現場の教師は、戦後の教育は、実は「個」が大切にされてこなかったことを指摘してきたはずです。

 つまり、教育の荒廃があるとしたら、「個」を重視したからではなく、逆に大切にしようとしなかった文部省・文科省の教育政策の失敗なのです。

 たとえば、低学年の社会科、理科を廃しての生活科の実施とそれにともなう学力の低下問題。

 学校五日制にともなう月曜日〜金曜日の詰め込みの時間割。

 「ゆとり」と言いながら、逆に現場を忙しくさせてしまった中途半端な総合的な学習。

 現場の強い要求があるにもかかわらず、一向に下げようとしない学級定数問題。

 エトセトラ、エトセトラ…。

 失礼ながら、戦後の文部省・文科省の政策は連戦連敗だったのです。

 そしてその失敗の原因を、すべて現場の責任にしてきたのがもう一つの特徴です。特にそれを、「教師の質」だけの問題にしてきました。

 そして現場は、その責任からのがれるために(説明責任を果たすために)、子どもへの指導とは別に多くの書類の提出を教師に強いり、また、教師の統制・管理を厳しくしていきました。

 一方教師は終わりのない仕事量と、最近の子どもたちの指導の難しさ、そして保護者との信頼関係を結ぶことの難しさもあいまって、中には精神的に病んでしまう者も年々増えてきています。

■ 今後どんな問題が

 今年のお正月に私は以下のようにも書きました。

〜前略〜

生活の二極分化は日本の犯罪を増加させてしまうばかりか、子どもたち同士・保護者同士の関係を崩すことになります。

また、教師を多忙化させ、その実践の自由を奪うことは、子どもたちとの距離を遠ざけることにもつながります。つまり、子どもたちのリアルな生活現実が見えなくなり、その現実に沿った指導が成立しなくなるということです。

そもそも子どもたちは、学校と家庭、そして地域の生活の中で教育されていくものです。それらがバラバラにされ、お互いに責任を押し付けあうような動きは、ますます子どもたちの成長にとってマイナスとなります。

もし私が予想したような年になると、まず子どもたちが、いろいろな形で、学校・教師・教育…そして家庭に対して、異議申し立てをしてくることが考えられます。

それが新たな「荒れ」という形で出てくるのか、それとも別の形で出てくるのか……。

〜後略〜

 残念ながら私の予想は当たってしまいました。「それが新たな「荒れ」という形で出てくるのか、それとも別の形で出てくるのか……。」は、なんと「いじめ自殺問題」としてふきだしてしまいました。

 子どもたちは「このままでは、生きていくことさえつらい」と私たちに訴えかけてきています。ところが教育行政は、その訴えの背景にある問題に触れようとせず、それを子ども同士の問題、教師と子どもの問題、さらには親子関係の問題に置き換え、形だけの解決でやり過ごそうとしています。

 いじめ等で他者を傷つけることは許されることではありません。場合によってはその社会的な責任をとらなければならないでしょう。しかし私たちが同時にしていかなければならないのは、いじめを生んでいる学校体制とそれを生み出している教育行政の抜本的な見直しのはずです。いじめをした子を処分すればいいというわけではないはずです。

 また、今回の教育基本法の改正で、その関連法案が次々と提出され、可決されていくでしょう。そのことによって、特に教師に対する締め付けがさらに厳しくなることが予想されます。教育の自由は奪われ、意見表明権も認められなくなるでしょう。細かな仕事ぶりのチェックも厳しくなります。いや、すでにそういった学校が増えてきていることも事実です。

 ・通勤時の服装、髪型
 ・職員室に入ったときのあいさつ
 ・出勤簿の押印
 ・机の上(中)の整理状況
 ・提出物の提出状況
 ・クラスの子の遅刻の人数
 ・クラスの子の名札忘れの人数
 ・職員会議での発言内容
 ・板書の文字
 エトセトラ……。

 これらがすべて教員評定の資料にされることが予想されます。教室にカメラがつけられる日も近いかもしれません。そんなことは民間では当たり前、という方が多いと思います。しかし学校ではこれをやってはいけないのです。学校はこういった形での教師評価はなじまないのです。

 なぜなのでしょうか。それは、「教師が管理されると、教師は子どもを管理するしかなくなるから」です。その管理の中で、子どもたちの事情や、本当の思いや願いが見えなくなってくるということです。「いじめ問題」はもちろん、その他いろいろな教育問題は解決できないばかりか、ますますその根を深く、広くさせてしまう危険性があります。

 たとえば子どもが「荒れ」た行動をとったとします。しかし教師はそれをしっかりと受けとめて、事情を聞きながらその子の苦しさに共感しつつ指導すればよいわけです。

 しかしこれからの「教員統制・教師評価の時代」では、学級に「荒れ」の行動があるだけでその教師の評価が下がることになります。ゆえに教師は「荒れ」の行動を、その事情を考えずにいきなり否定することになるでしょう。

 そうなってくると、教師と子どもの関係性が崩壊し、やがて学級崩壊につながっていくケースが増えてくることを心配しています。

 このようにこのまま教師の管理統制を強めていくと、来年は学校と保護者との間のトラブルが多発し、教育争議が多発する年になるかもしれません。
 
文科省・教育委員会はその覚悟はあるのでしょうか。

■ 教師としてどう生きるのか

 これまで書いてきたように、こういった政府のスタンスでは今日の教育問題は解決できないばかりか、ますます矛盾がふきだすことは残念ながら明らかなのです。
  そういった意味で今、私たちは教師としてどう生きるのかが問われているような気がします。

 (1)政府の出す教育政策を推し進める優等生 になるのか、それとも、(2)自分の目を子どもたちに向けて、その子どもたちのために自ら授業を工夫し、場合によっては政府の方針にも意見する…、そんな生き方 をしていくのか。

 私はもちろん(2)の後者を選びます。
  そしてそんな教師のスタンスにこそに子どもたちや保護者は信頼を寄せてくれるのです。

 そのことを信じて、来年も共に顔晴って(←当て字:がんばって)いきましょう!

(2006.12.31)

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